[映画]『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』で語学への気合を入れなおす
映画『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』を鑑賞しました。一度みてあまりに心打たれたので、日を置いてもう一度みてきました。
劇場にて『ペルシャン・レッスン』を鑑賞したところいたく感動して、その勢いでスタバに籠りドイツ語講義の予習に2時間かそこら打ち込んだうえ書店でドイツ語の勉強に関係しそうな本を3冊買い込んだ。おおよそ語学の勉強をする人全員にみていただきたい。 https://t.co/zvRpi4CG6C
— カガタ・ユースケ kann brauchen, was er gelernt hat (@_heartyfluid) 2022年11月19日
今日はドイツ映画まつりというかナチス映画まつりを敢行。『バビ・ヤール』は話の筋(っていうのか?)が追いづらくて疲れた。背景知識が足りなかったのかもしれない。同じロズニツァ監督作の『ドンバス』はもっと乗れたんだけどな。『ペルシャン・レッスン』は2度目。ディテールを噛み締めた。 pic.twitter.com/OV5R7np1Tm
— カガタ・ユースケ kann brauchen, was er gelernt hat (@_heartyfluid) 2022年12月24日
全体として、ドイツ語学習者としての自分の姿勢を強くただされた感があり、語学をやる人みんなにみてほしい映画だと思いました。
概要(ないしゲームのルール)
公式サイトから引用:
ナチス親衛隊に捕まったユダヤ人青年のジルは、処刑される寸前に、自分はペルシャ人だと嘘をついたことで一命を取り留める。彼は、終戦後にテヘランで料理店を開く夢をもつ収容所のコッホ大尉からペルシャ語を教えるよう命じられ、咄嗟に自ら創造したデタラメの単語を披露して信用を取りつける。こうして偽の<ペルシャ語レッスン>が始まるのだが、ジルは自身がユダヤ人であることを隠し通し、何とか生き延びることはできるのだろうか──。
主人公ジルに課されたミッションはおおむね次のとおり。
- 自分のまったく知らないペルシャ語をコッホ大尉に教えなければならない
- コッホ大尉に教える嘘ペルシャ語の単語を自分ででっち上げなければならない
- たとえ嘘ペルシャ語教師のミッションを抜かりなくこなしても、強制収容所ではいつ理不尽に殺されるかわからない
簡単にまとめれば、「暗記できなかったら即殺されるし、暗記できても偶発的に殺されるかもしれない」ということです。
ジルに見習うべき点
1. 学んだ(というかでっち上げた)言語をとにかく堂々と運用する
ほかのユダヤ人といっしょに銃殺されそうになったところを「自分はペルシャ人だ」と言い張って切り抜ける冒頭から始まって、ジルは事あるごとにユダヤ人ではないかと疑われ殴る蹴るの暴行を受けたり銃口を突きつけられたりするわけですが、そのたび堂々と嘘をつき通します。あるときは相手の目を見て今思いついた嘘を言い、あるときは粛々と無視してみせる。
語学の上達には「失敗を恐れず堂々と運用してみる」のが大事です。もちろん失敗するというのは恥ずかしいものですが、失敗すれば即死のジルに比べればまったく取るに足りないことです。自分も学んだ言語をジルのように堂々と運用して、場数を増やしていきたいと思いました。
2. 勉強の質・量ともに貪欲
質についていえば、ペルシャ語の教材はもちろん筆記用具すら随意に使えない中、ジルは目に入ったものに片っ端から嘘ペルシャ語の名前をつけたり、被収容者名簿の氏名をもじって嘘単語をでっち上げることで記憶を強化したりと、勉強の手段を次々発明します。
ドイツ語を学んでいるとつい「英語は教材が豊富でいいな」「ロゴフィリアみたいな本がドイツ語にもあればな」などと甘えたことを考えがちですが、ジルのおかれた境遇に比べれば明らかに恵まれているわけで、もっとハングリーにならなければ語学の上達はおぼつかないと思い知らされます。
また量に関しては、コッホ大尉いわく半年で570語、その後期間は不明なものの終幕時点では3,000語弱を習得したようです。コッホ大尉はともかく、筆記用具も満足に使えないジルにとっては大変な量といってよいでしょう。
序盤にコッホ大尉は1日4語、2年で2,000語という学習目標を立てます。ここで思い出したのが千野栄一『外国語上達法』でした。
ある外国語を習得したいという欲望が生まれてきたとき、まずその欲望がどうしてもそうしたいという衝動に変わるまで待つのが第一の作戦である。そして、その衝動により、まず何はともあれ、やみくもに千の単語を覚えることが必要である。
[...] そのエネルギーとしては、どうしてもその言語をモノにしたいという衝動力を使い、そのエネルギーの燃え尽きる前に千語を突破することである。従って、この千語習得の時間は短くなければならず、そこで十分に時間のとれるときに新しい言語を学び始めるよう計画をセットする必要がある。
「千語習得の時間」として千野がどの程度の長さを想定していたのか明示されてはいないものの、明らかにコッホ大尉の学習姿勢はヌルいな、と感じたのでした。そのあとすぐ「やっぱり40語教えろ」となって、これは案外ばかにできないかもしれん、と思い直すのですが。
条件の整ったコッホ大尉がそれなりの情熱で学習するということは、ジルもまた少ない道具立てでそれに応える必要があるわけです。おおよそ一日中単語の暗記に精力を注いでいたジルの嘘ペルシャ語学習は、質だけでなく量も圧倒的だったというべきでしょう。特に熱いのは、暴行を受けて半死半生の中無意識に嘘ペルシャ語単語を暗唱するシーン。日ごろどれだけ暗唱を繰り返していたかがしのばれます。
そういえば、単語を覚えるシーンが劇中たくさんあるのに対して、文法の話題はまったくと言っていいほど出てこないんですよね。むしろ、文法はまだ学んでいないとためらうコッホ大尉に、いいから噓ペルシャ語で話してみろとジルがけしかけるシーンすらあります。語学力を決定づけるのは結局語彙の量であり、語彙を増やすことこそが正義だというメッセージなのかもしれない…?
総じて、勉強の質にせよ量にせよ、自分にそれらが足りていないのは結局「ドイツ語ができるようにならないと死ぬ」とか思っていないからなんだろうな、と反省しました。まさに必死さが足りない。
3. 努力が報われない理不尽にもくじけない
「ドイツ語ができるようにならないと死ぬ」とか思っていない、と前項で書きましたが、これは裏を返せば「ドイツ語ができるようになったところで特に何もない」ということでもあります。簡単なところでいえば、たとえばドイツ語ができるようになったところで仕事には役立ちそうにない、とかそういうことです。興が乗っている間は知的好奇心だけでも勉強ははかどるのですが、残業したとか眠たいとか勉強の妨げになるものが現れると、とたんに「なんでこんなこと頑張ってるんだっけ」と気の迷いが生じます。
その点、ジルが嘘ペルシャ語に注ぐ情熱も、正当化するのがなかなか難しいものです。まずどこへ行っても通じない嘘ペルシャ語を身につけないといけないという状況自体、そもそも不条理です。また、それによってコッホ大尉には守ってもらえても、強制収容所では学習の努力とは無関係に理由なく殺されてしまうかもしれない。実際ジルにも、それまでの努力を投げ出して死に向かおうとする場面が何度かありました。情熱を持ち続けられないのも無理からぬことです。
ジルが長期にわたって心折れずに語学を続けられた理由は何だったのか。劇中では偶然の出会いで命拾いするわけですが、はたして単発かつ偶発的なイベントだけで継続できるものなのか。あるいは結局のところ運でしかないのか。この映画に描かれていることだけから答えを導き出すのは難しいことですが、今後考えたいところです。
ジルとコッホ大尉にみる語学の価値
劇中ジルとコッホ大尉の嘘ペルシャ語語彙が増えていくうち、二人はしだいに嘘ペルシャ語で会話ができるようになります。事実上、二人にしかわからない暗号です。嘘ペルシャ語でコッホ大尉は詩を編み、そして余人には話さないつらい過去をジルに打ち明けます。その後ドイツ語での会話では、ジルがコッホ大尉を親称 du で呼ぶようになります。
ジルはドイツ語も流暢なものの母語はフランス語、そしてコッホ大尉の母語はドイツ語です。二人がドイツ語で会話するのは、コッホ大尉はじめナチスにジルが隷従を強いられているためです。一方嘘ペルシャ語は、ジルにとっては自称母語であり、コッホ大尉にとっては母語話者レザ・ジューン(ジルがペルシャ人を装うために名乗った偽名)から学ぶ外国語です。つまりドイツ語の場合とは正反対に、コッホ大尉がレザ・ジューンの生活様式に合わせる形になるわけです。それも強制でなく自発的に。その結果ジルがコッホ大尉を du で呼ぶようになったのは、ジルがコッホ大尉に心を開いたととらえることもできそうです(結局最大の嘘は残しているというのが難しいところなんですが)。
「自分の母語で相手に話させる」ということは「自分の世界に相手を取り込む」ということであり、逆に「相手の母語で話す」ということは「相手の世界を尊重しその世界に入っていく」ことなんだろうな、と思いました。そして心を開いて「相手の母語で話す」ことには、相手の心をも開かせる効果があるのかもしれません。もしそうなら、語学って希望があるなと思います。そういえば先日、「ウクライナの避難民から日本語であいさつを受けてすごく親近感がわいた。自分もウクライナ語であいさつしてあげようと思った」というような話を聞きました。ちょっと似ていますね。
ただまあ、コッホ大尉もジルと嘘ペルシャ語を話している間は何かしら幸福そうでしたが、最終的にはコッホ大尉の努力は報われなかったんですよね…。やはり「努力が報われない」結末も、覚悟しておかないといけないのかもしれない。
追伸
- 原作は Wolfgang Kohlhaase "Erfindung einer Sprache" 『ある言語の発明(でっち上げ)』。Kindle ストアにある短編集のサンプルで、全編読めてしまう模様。太っ腹
- 『バビ・ヤール』はパンフレットを読んで復習します…