【本】小島雄一郎『「選べない」はなぜ起こる?』
小島雄一郎『「選べない」はなぜ起こる?』を読んだのでメモ。
人は今、沢山の商品から最高の1品を選びたいわけじゃない。「選択疲れ」から解放されたいのだ。
〈選ばれるヒント〉「数」を絞る 「逆」に張る 「意思」を込める
個人的には昔から「選択肢があるのが正義」と思っているところがある。たとえば Web 屋の大半が Mac を使う中かたくなに Windows を使い続けているのは「Mac には互換機がないから」だし、QR コード決済の世界で PayPay がのして Origami Pay がつぶれるのも苦々しくみていた(どっちも使ってなかったのに)。逆にいえば「ひとり勝ちの状況がきらい」。
そんな自分にも近ごろ「これは選びきれない」と弱った気持ちになることがあって、本書を手にとった。
第1章 「選べない」はなぜ起こる?
膨大な選択肢は、必ずしも生活者のために用意されたわけではない。[...]今、メーカーの最優先事項は、売場の棚を獲得すること。[...]限られた売り場をめぐる競争が、すべての関係者を「選択肢の増加」へと駆り立てているのだ。
まずこの前提を把握するのが大事。
また、「選択肢」だけでなく「判断材料」も増加している。たとえば飲食店の口コミ。
飲食店に限らず、あらゆる事象の判断基準が自分の基準ではなく、他人や世間の基準へシフトしていった。これは判断材料インフレーションの重大な副作用だ。
「選択肢」と「判断材料」のインフレーションは、生活者の都合に関係のないところで起こっている。そのことを押さえるだけでも、「膨大な選択肢すべてをまじめに検討しなくてもよい」と距離をとることができそう。
第2章 選べない時代の「選ばれ方」
第2章は「選ばれる」ほうの話。選ばれるには多くの選択肢を提供するのでなく、ストレスなく迷わず選んでもらえるようにする必要がある。そのために必要なのは「作り手の意思」であるという。
「お客様の声」から商品を作るのではなく、「作り手の意思」から商品を作る。
そんなエゴのようなプロダクトが、現代では魅力的に映る。逆に言えば、これからの時代は意思がない作り手に魅力的な商品を作ることはできないだろう。
「自分の意思」は、情報過多の時代におけるもっとも強力な差別化の武器だ。それは選択肢の海で迷う生活者に、「迷わず選べる」という価値を提供する。
マーケットインでなくプロダクトアウトが「迷わず選べる」状況に持ち込む、ということかしら。
次いで「逆張り」によって競争から抜け出すことが肝要という。1冊しか本を置かない森岡書店は、一般書店に対して営業時間や在庫に制限のない Amazon の「逆」を張った。著者の小島さんがコンビニの POP 制作で緑を使ったのは、他より目立とうと多くの POP が用いる赤の補色で「逆」を張ろうとしたから。中庸からみて競合が競い合っている方向性の反対側に、競争を抜け出す道がある。
現代のマーケティングにおいて最大の脅威は同業他社ではなく「情報競合」だ。世の中に流通する「自分たち以外の情報」も含めて考えなければ、真の意味で認知されることはできない。
また選ばれやすくするためには「数」を絞ることもまた大事という。これは選ぶ側としてはわかるところがあるけれど、プログラマーとして1点ものの Web サービスをつくることを長らく稼業にしてきた自分が「選ばれる」側としたときどういう話にあたるだろう。
第3章 あなたも「選ばれにくくなっている」
ここからはビジネスを離れた人間関係の話。ソーシャルメディアやマッチングアプリの台頭で人間関係の選択肢も増え「つながりのインフレーション」が生じている。その結果、関係の量だけでなく質も変化したという。
「友達」の関係についてはわりとわかるところがある。
友達がその特徴や用途によってカテゴライズされていくのである。Aさんは野球友達、Bさんは推し友達、Cさんは映画友達のように目的別になっていく。あなた自身も誰かの「○○友達」として認識されているかもしれない。
「そんなの本当の友達じゃない」と感じる人もいるだろう。
「何をするにもずっと一緒」こそが本当の友達だと言いたくなる気持ちもわかる。かつてはたしかにそうだったが、否応なく今の関係性は変化している。もう「本当の○○」という表現は適切ではなくなったかもしれない。友達の再定義が始まっているのだ。
そしてそれにも良し悪しがある。
結果として、自分が困った時や悩んだ時、安心して全てをさらけ出せる相手が見つけにくくなる。「**友達」しかいなくなってしまうと、「**じゃない時に会う」ことが自分にも相手にも不自然に思えてしまうからだ。
目的でつながる友達と、目的なしにただ一緒にいる友達、この二つのバランスがこれからの人間関係では重要になってくるだろう。
後者こそが真に「友達」なのだ、という主張も過去見かけた気がするけれど、あえて広くとらえることでの面白みもまたあるのかもしれない。
いっぽう恋愛関係や結婚はどうなんだろうか。個人的には若いころ思っていたほど劇的には世間が変わっていないように感じる。周囲ではわりとみんな結婚式とか挙げるし、嫁姑関係に心を砕いているようだし、夫婦別姓も実現していないし。たまたままじめな「友達」が多いだけだろうか。
第4章 選べない時代に「当たりを選ぶ」方法
ここは決断する勇気が出る章。
豊富な選択肢も、膨大な判断材料も、見えなければよかった。そのほうが根拠なく、直感のままに選ぶことができた。「なんの判断材料もないのに、選べない」と思うかもしれないが、「なんの判断材料もないほうが、まだ選べた」ということに、私たちは今気づかされている。
「最適解」と「納得解」の対立が導入される。
私たちが見えすぎてしまったものに名前がつくならば、それは「最適解」だ。
最適解とは、客観的な評価基準に基づいて論理的に導いた正しい答えのこと。[...]最適解の対極にあるのは、他人ではなく自分だけが納得できる「納得解」だ。
理系的に言い換えれば、すべての人に広く浅く成り立つ一般解と、自分にだけ成り立つ特殊解、ということかしら。
でもあえて「最適解」と「納得解」と読んだほうが価値判断を帯びるというか、最適解をあえて捨てることがスリリングにもなってくる(だって「最適解」ですよ?)と思う。
そして最適解が可視化されたことで、「自分で選んだ」実感を持ちにくくなってしまった。
現代では「みんなの最適解」が先に見えてしまっている。[...]現代は、すべての選択が最適解の影響下にある。だから何を選択しても、「自分で選んだ」という納得感を持ちにくい。
そこで、「当たり」とはなんなのか立ち戻って考えてみる。
現代では、あらゆるモノやお店、人が評価対象になり、それらが点数化され、ランク付けされている。その中でいつしか「高評価=当たり」、「低評価=ハズレ」という固定観念が生まれた。
しかし本来の「当たり」の意味は違う。[…]偶然出会った自分だけの喜びこそが「当たり」の本質であって、みんなから評価済みだと知った上で選んでも「当たり」ではない。
それは「当たり前」を選んでいるだけだ。
そういえば以前、「ビジネス書で<科学的に正しい>とかタイトルでうたってる本がよくあると思うんですけど、<科学的に正しい>ことの何がうれしいと読者は思ってるんでしょうね」と営業部門の人と話したことがあった。「やっぱり再現性があるってことじゃないですか」とその人は言ったのだけれど、「再現性がある」ということは競合も同じことをすれば同じ効果があがるということで、 「科学的にはよくわかってないけどなぜかあなたにだけ効果がある」のほうがビジネスではありがたくないですか 、とこちらは主張したのだった。ここでいう「当たり」ってそういうことだと思った。
そして、「当たり」を引くかどうかは運の問題ではない。「最適解」の情報をあえて遮断し、広い視野で観察することで見つけられるようになる。自分でどうにかできる余地がある、という点に勇気がわく。
セレンディピティとは、単なる運任せではなく、自分の興味の幅を広げ、「いいな」と思う感覚を大切にすることで、積極的に引き寄せることができるものなのだ。
おもしろがることって自己効力感に直結するというか、精神衛生上大事なんだな、と思った。あと楠木建『絶対悲観主義』のことがなんとなく思い出された。
関連
著者ウェブサイト。
幻冬舎 plus に試し読み記事が4本出ている。