「英語を学ぶ意義」を中高生に問われても困らないよう備える――『英語史ライヴ2025』ふりかえり

「英語を学ぶ意義」を中高生に問われたらどう答えたものか。ふだん中高生とは没交流な生活を送っていますが、最近そんなことについて考える機会がありました。万一直接中高生にきかれることがあったときのために、現時点での回答をここに準備しておきます。
きっかけは『英語史ライヴ2025』
過日、下記の収録に参加しました。
高校の英語教員である川上先生の問題提起は次のようなものでした:
中高生に向けてというような設定で、お題は『helwa メンバー発信!中高生のあなたへ、私は今こうやって英語あるいは外国語とつきあっています』こういうお題でお話をいただきたいと思います。
中高生は英語学習の意義を見出せない、そういう生徒たくさんいます。そういう若者にこの helwa のメンバーの方、社会人の方が多いわけなんですけれども、社会人になってこうやって英語を使っている…英語じゃなくてもかまいませんけれども、英語を楽しんでいると、そういうような実態といいましょうか、生き方というようなものをお伝えすることは大変意味あるのではなかろうかというふうに思いまして、お願いしたいと思います。
この川上先生のネタ振りに対してわたしは、「役に立つ」もしくは「好き・楽しい」がいえれば「意義がある」といえるのかな、と考えました。そして以下の2つの話をしたのでした。前者は「役に立つ」で、後者は「好き・楽しい」ということです。
- 英語はプログラマーにとって役に立つ。プログラムはたいてい英語の語彙を使って書くし、技術動向を追いかけるにも英語のほうが有利
- ドイツ語・ラテン語・アイルランド語はいまのところ何の役にも立っていない。ただ楽しいからやっている
この音源を川上先生は教え子たちにも聴かせたとのことで、以下のとおり感想をいただいています。
いただいた感想を受け止めるところから、まずは始めたいと思います。
IT における語学の実利について
英語はプログラマーにとって役に立つという前段の話について感想をいただきました。
自分は IT 系に興味があるので、プログラミングはまだ英語が主流ということで、英語のメリットをいくつか知ることができた。
IT 系に興味があるとのこと、うれしいです。ぜひふれてみてください、楽しいですよ。
最新情報を正しく知るためには英語を学ばなければいけないと思いました。
良くも悪くもそういうところはありますよね。
さてここでは、「まだ」英語が主流と当日留保していた「まだ」の部分について補足します。
このところ IT 業界で存在感を増しているのが中国です。その結果、中国語での技術情報(ライブラリのドキュメントとか)をたまーに見かけるようになりました。
また、とくにハードウェアの製造のような仕事では、すでに中国の技術者とのやりとりが生じている現場もあります。いまのところ日中間での仕事上のコミュニケーションは英語でとられているようですが、今後さらに中国が力をつけたら「英語よりむしろ中国語が役立つ」となってくるのかもしれませんね。
いっぽう、プログラムを書く言語としての英語がそれ以外の言語に取って代わられることは、当分起こらないのでしょう。現代のコンピュータは基本的なつくりとして、情報の入出力を英語(のアルファベットと約物)でおこなう前提となっているからです。日本語プログラミング言語「なでしこ」など、英語以外の言語に基づくプログラミング言語も提案されてはいますが、いずれも本格的に利用されているとはいえない状況です。
実益のない趣味としての語学について
語学の趣味が役に立っていない(けれど楽しい)、という不穏当な発言に対しても感想をいただきました。
三か国語を利点がなくても勉強しているのが面白かった。
面白いですよね。なんでそんな意味ないことするの?と自分でツッコミを入れています。
メリットがなくとも楽しいと思って学び続ける kagata さんがカッコいいと思った。
こういうのを「カッコいい」と思ってしまうのはいわゆる中二病の前兆かもしれません。気をつけましょう。
実用性がないらしいけど学ぶことが楽しいと言っていて、とてもいいなと思った。
そうですね、楽しいというのはたいていの場合よいことだと思っています。
楽しいことをすることが大切だと思った。
さて、そうなんでしょうか。風邪をひいて寝込んでいるとか戦争が起こって逃げないといけないとか、よほどのことがない限りは「楽しいこと」って「大切」であろうがなかろうがやっちゃいますからね。あるいは逆に言えば(より正確には対偶をとれば)、「楽しいこと」ができているということはそれだけ平和だということで、そう考えてみればたしかに「大切」なことかもしれません。
挑戦という第3の意義:中高生よ、必修科目と闘え!
上記収録のあともずっと考えていたのですが、「なんで英語なんか勉強しなくちゃならないのか」と思っている中高生に対して説得的なことを言うのは難しいものです。「自分にはこのように役立った」と言ったところで、ほかならぬあなたの人生には役立てる場面が訪れないのかもしれない。まして「好き・楽しい」というのは基本的に主観であり、「でも自分には楽しくないんです」と言われると返す言葉もない。
そんなことを思っていた折に回ってきた次の記事に、ヒントになるかもしれないことが書いてありました。先ごろ出た島本和彦『締切と闘え!』という本の序文です。
この本を手に取った君は、締切がイヤなんでしょう。私もイヤだ。気持ちはよくわかります。
「なんとかギリギリ締切に間に合わせる、うまいやり方がないか」
「怒られないですむ方法はないか」
そうですよね。それこそが君の良くないところです。
こんなタイトルの本を適当に手に取るぐらいだったら、まず机にしがみついてやるべきことをやれ! この本を立ち読みしたり、タイトルをクリックしたりする心の弱さを恥じろ! 自分の力で勝負して、自分が答えを見つけるんです。
ああ、こういうことなんじゃないか、と思ったのでした。
英語が好きじゃないとか、英語の勉強がなんの役に立つとかわからないとか、そういう気持ちになることはあるでしょう。個人的には英語はわりと好きな方でしたが、気乗りしない科目としては化学(中学ではそうでもなかったんですが、高校化学って急に算数+暗記になりませんか)と体育(こちらは人生通じて)がそうでした。でも中学・高校で開講されるあらゆる科目について「これって何の役に立つんですか」といえば「卒業の資格を得る」ことに役立つのは自明なわけで、それは問い自体が成立しないわけです。
さらに島本はこう続けます。
今、君が自分自身の力で、全力で戦わなければいけないのは、若いときにチャレンジしなければ得られない「傷」があるからです。
みんな気がついていないけど、人生には締切があります。学校には卒業があり、部活には引退があるように、終わりはあらかじめ決められていて、二度と戻ることはできません。人生のそのときにしかできない挑戦があります。
そうですね。では中高生にとって英語の勉強というのはどのような「挑戦」でありうるのでしょうか。本を買って続きを読みました。
するとこんなことが書いてあります。第五章より:
「宿題」と「遊び」。これはまったくの別物と考えましょう。同列に並べちゃうから引っ張られてしまう。どっちが大切か考えて、大切なほうをやったらいいだけの話なんです。だって、イヤイヤ我慢して宿題やってるという状況、すごく不快ですよね。ちゃんと自分でコントロールができている状態がいい。
「宿題があるのにあえて遊びに行く俺、カッコイイ」なのか、逆に「遊びたいのにあえて宿題をする俺、カッコイイ」なのか。どちらにせよ「自分が自分をコントロールできている」ことがポイントです。スケジュールよりも己が優位に立って考えるんですよ!
要は宿題と遊びの、どっちが「あなたにとってたいしたことがあるのか」っていうことです。[...]スケジュールに対して、能動的であること、主体的であること。これが締切とうまくつきあうコツです。
「宿題」と「遊び」を、「英語の勉強」と「(何か自分の好きなこと)」に置き換えてみましょう。
結局のところ、中学校・高校卒業を目指す人々に社会はなんにせよ英語の勉強を強いてくるわけです。それが将来自分の「役に立つ」のか、やる過程で「好き・楽しい」と思えるのか、他人はいろいろ言いますが保証してくれるわけでもありません。できることがあるとしたら、英語の勉強を強いられる状況に対して自分がどういうスタンスをとるのか、自分で決めるということだけです。それは「英語をやる俺、カッコイイ」なのかもしれないし、「英語をやらない俺、カッコイイ」なのかもしれません(カッコいいは中二病なんでしたっけ、まあいいとしましょう)。そうやって自分のスタンス・価値観を自分で打ち立てるという挑戦の機会としては、なんにせよ使えるんじゃないでしょうか。それが英語の勉強である必然性はあやしいですが、人生そんなものです。
何を言っているのかわからない、と思ったあなたは本を買って全編読んでみてください。島本の突き抜けっぷりにもっとわからなくなるでしょう。
わからないついでに、上の引用から連想した別の本も挙げておきます。ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』です。「第二段階 収容所生活」の「教育者スピノザ」「生きる意味を問う」と題する節より:
「生きていることにもうなんにも期待がもてない」
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。
[...]ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
「生きること」を「英語の勉強」に置き換えましょう。そういうことです。
むすび
ここまで、英語の勉強が「役に立つ」とも「好き・楽しい」とも思い切れない中高生に、それを受け入れたうえで何が言えるかを考えてきました。
最後にもう少し希望を述べるとすれば、中学校・高校で英語が必修なのにはそれなりの理由・経緯があるということじゃないでしょうか。全員に該当するとは限らないまでも、わりと多くの人にとって英語というのは学んでおくと役に立つようだ…という目算があってカリキュラムに組み入れられている、と考えるのが自然でしょう。
あとは、身もふたもない不穏当なことを言ってはばからないわたしのような悪い大人とは別に、英語の楽しさ・面白さを分かち合うことができると確信する良識ある大人もたくさんいるということは、中高生にも伝えておくべきでしょう。今回お題をいただいた川上先生がまずそうですし、冒頭に貼った収録の冒頭で堀田隆一先生(慶應義塾大学)が以下のようにコールしているのもまたしかり。
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